朝の訪問の道すがら、金木犀の香りに出会う季節になりました。
メディ在宅クリニック院長 髙橋 保正です。
空は高く、風は澄んで。
患者さまのお部屋の窓を開けると、秋がすうっと入ってきます。
「窓を開けて、季節を入れる」
これも、お家でしかできない、大切なお手当のひとつです。
今月の「お家のものがたり」は、30代のお母さまの物語です。
幼い娘さんが二人。
彼女が編み続けたものと、遺していったもの。
少し切なくて、でも、あたたかい物語です。
アヤさん(30代)のお家に初めて伺った日、玄関に小さな長靴が二足、並んでいました。五歳と三歳の、姉妹でした。
乳がんの再発。お若い方の進行は、ときに残酷なほど速いのです。それでも彼女は、病院ではなく、お家を選ばれました。
「入院したら、子どもたちの『いつも』が壊れちゃう。私は、いつも通りの家にいるお母さんでいたいんです」
初回の診察を、五歳のお姉ちゃんがドアの隙間からじっと見ていました。アヤさんは手招きして、娘さんにおっしゃいました。
「この先生はね、お母さんの体を楽にしてくれる先生だよ」
治す、ではなく、楽にする。彼女はもう、お子さんに嘘をつかない言葉を、選び始めておられました。
アヤさんは、編み物をする方でした。ベッドの上には、いつも編みかけの毛糸。編んでおられたのは、娘さんたちの靴下でした。
五歳用、三歳用。それから、少し大きいサイズ。もっと大きいサイズ。
「大きくなった分まで、編んでおこうと思って。十歳の分と、十五歳の分」
「十五歳のは、ダサいっていわれるかな」
「言われるでしょうね。でも、言われて、それでも捨てられなくて、たぶん一生持ってくれてると思います。」
そう、お伝えしました。
「それでいいんです。お守りは、使わなくていいから」
痛みのお手当には、注文がつきました。
「眠くなる量は嫌です。子どもが起きてる時間は、起きていたいんです」
私たちはお薬の種類と時間を細かく組み替えて、彼女の一日を、お子さんの一日に合わせて設計しました。秋には「前倒しの七五三」も計画しました。十一月まで、お体はもたないかもしれない。
それを誰より正確に分かっておられたのは、ご本人でした。
「先生、十月の、いちばん調子のいい週って、作れますか」
作りました。近所の写真館さんが、お休みの日に店を開けてくださいました。写真の中で、アヤさんは着物の妹さんを膝に抱いて、笑っておられます。点滴の管を隠しましょうかと聞かれて、彼女は断られたそうです。
「これも今の私なので。お母さんは病気でも笑ってた、っていう証拠になるから」
十五歳用の靴下は、かかとの手前で止まりました。もう針を持てなくなった週、彼女はそれをご主人に託されました。
「かかとは、編み方の動画を撮っておいたから。この子が十五歳になったら、一緒に見ながら編んで。あなた不器用だから、二人がかりでちょうどいい」
アヤさんが旅立たれた朝、姉妹はお母さんの編んだ靴下を履いて、いつも通り保育園に行きました。それが、アヤさんの遺言でした。
「いつも通りにしてあげて」
かかとの手前で止まった靴下は、未完成品ではありません。
十年後に完成する予定の、このお家でいちばん先の未来を編み込んだ、お守りです。
小さなお子さんが二人いる、お若いお母さまの退院支援をしています。ご本人は在宅を希望されていますが、「子どもたちに病気をどう伝えたらいいのか」と悩んでおられます。
お子さんのケアまで、在宅医療でお願いできるのでしょうか。
ご相談ありがとうございます。
大丈夫です。お子さんのことも、まるごと私たちにお任せくださいませ。
お子さんは、大人が思うよりずっと敏感に、変化を感じ取っています。
隠し通すことは難しく、年齢に応じた正直な言葉で伝えるほうが、あとの心の傷が浅いことが分かっています。
「治す」と言えないときは、「楽にする」「ずっと一緒にいる」。
嘘にならない言葉を、ご一緒に探すところから始めます。
伝える場に私たちが同席することも、できますからね。
そして何より、私たちがお守りするのは、そのお家の「いつも通り」です。
お母さんがリビングにいて、子どもたちが騒がしくて、ごはんの匂いがする。
その毎日こそが、お子さんの心のいちばんの薬なのです。
お看取りのあとの、ご家族の心のケア(グリーフケア)も、私たちのお仕事です。
お若い患者さまのご退院、どうか迷わずご相談くださいませ。
がんの患者さまは、お時間が限られています。
お子さんと過ごすお家の時間を、一日でも長く。
そのために、私たちは今日も準備万端です。
いつも大切な患者さまをご紹介いただき、ありがとうございます。